すかんぴんのブログ「今日もヒマだぁ~」

暇を持て余して、お山、お絵かき、蕎麦打ち、山菜採り、キノコ採り、音楽鑑賞、オーディオ、パソコンと、あれこれ手を出し、もがいているジジイのページです。

教え方(長いです)

 もう最近はずっとスキーは腰痛の為やってないが、40代の頃はよく行ったもので有る。そもそも始めたきっかけは湯沢に住んでいた今は亡きN君の誘いからだった。私は子供時代、家が貧しかったので当然のようにスキーなんぞ買って貰えず、冬の体育のスキーの時間の時にはただ突っ立って寒い中眺めているだけだった。

 

 だからスキーはしたことがないから滑れるわけがない。ただ中学一年生の時、南魚沼の石内中学との交歓会でスキーをしたことが初めての体験であった。一泊二日だったか、二泊三日だったか良くは覚えていないが兎に角民宿をやっていた方の家に泊まった。

 

 勿論今のスキーとは用具が違っていたが初めてやってみるスキーに気持ちはワクワクだった。だが昼間の教室では当然の如く上手く滑れなかった。夜になってナイターで教えてくれた方は教室の会場となったスキー場の民宿の息子さんで有った。私はそこに泊まったのだが、彼は地元だから当然スキーはとんでもなく上手い。しかもマン・ツー・マンで教えてくれるのだから、こんなに有りがたいことはなかった。

 

 しかし私は名うての不器用。彼の教えてくれるようには中々上手く行かない。結局私はボーゲンさえ満足に滑れずに終わった記憶がある。しかし彼は全然嫌な顔をせずに今度はスキーロッジへ連れて行ってくれて当時流行始めていたエレキバンドを聞かせてくれた。それが誰有ろう。何と寺内タケシとブルージーンズだったのである。

 

 当時は東京の人達が大勢南魚沼のスキー場に来ていたから、案外スキーロッジなんて都会化していたのだろう。思いも掛けぬ演奏を聞いて私は大満足した。他の同級生立ちよりも一歩進んだ文化を吸収したような気持ちになった。そういう訳でこの民宿の親切な息子さんには今でも感謝している。

 

 話は脱線したが以来スキーは40歳を超えるまでしてなかったが、ひょんな事から知り合ったN君に誘われたのである。まあ、私もスキーは一度きりしかやってなかったから滑ってみたい気持ちは有ったので同意した。さてそうなると道具選びである。

 

 当時私は走っていたので足腰は達者とみてN君は堅めのスキー板を選んでくれた。それでないと柔らかいスキー板は扱いやすくても直ぐに私の脚力だと駄目になるらしかった、そしてスキーウェアである。彼が選んでくれたのはえらく地味めのウェア。おいおい、オイラもうちょっと派手なのがいいんだけどなと言うと、アンタは直ぐに汚すからこのくらい地味な方が汚れが目立たなくていいのと宣う。クッソー、余計なお世話じゃ。金を出すのはオイラなのに。(笑)

 

 さて彼の指導が始まるが一向に私は上達しない。なかなかへっぴり腰が直らない。彼曰く「良くあんなへっぴり腰で滑れるもんだ」と。その後も毎年湯沢の色んなスキー場に連れて行ってはくれるのだが全然上達しない。で、N君、今度は私に上越のスキー場へ連れて行けという。

 

 場所を変えて妙高杉の原や池の平、キューピッド・バレーなどへ行っても結果は同じ。そこで私は彼に悪いし、二人だとどうしても自由に滑れないから一人で行くことが多くなった。体を動かすことは嫌いでなかったから下手なりに続いたんでしょうな。

 

 しかし一向に上達しないので流石の私も一時スキーを中断していた。そんな時マーさんと知り合った。偶々彼は自分の子供達もスキーに連れて行きたかったのでアッシー君に私を使った。ついでに私にも教えてくれたのである。しかし彼はN君ほど上手くはないのだが、教え方の急所を知っていたのか、彼から教わると上手く滑れるようになった。へっぴり腰が解消したのである。さあ、そうなると俄然スキーが楽しくなる。それから毎シーズン彼と一緒にスキー場へ行くようになった。

 

 スキー板も新しくカービングにしたし、スキーウェアも私の好みの物を買った。漸く晴れてスキーを楽しめるようになったのである。今は半日も滑らないうちに腰が痛くて駄目だからスキーは全くやらない。スキー板は物置で埃を被ったままである。しかし教え方が少し違うだけでこんなに習う側は違ってくるのかと感心したものである。

 

 考えて見れば教える人がどんなに素晴らしい技術の持ち主であってもそれを習う側に伝えられなければ教え方失格であろう。マーさんのスキー技術はN君と比べて格段に劣っていても私には遙かに素晴らしい先生だったのである。まあ、自分に合った先生というのは確かに有りますな。(笑)