亡くなったYさんはウチの問屋の社長さんの弟で、確か鹿島臨海工業団地にいたが、こちらへ戻ってきて、兄さんを手伝うようになった。彼が帰ってきたのは、私がこの問屋さんとお付き合いするようになってからだと思うので、まさしく同期の社員みたいな者になった。
彼は性格も体格も社長とは僅か二歳違いであったが、随分違っていた。体格は小柄で性格も優しかったように思う。毎日毎日、錆や油にまみれ、機械と格闘して、難しい仕事、大変な仕事は一手に引き受けていた。そして忙しい時は早朝5時頃から出勤して、鉄屑の切断機を動かしていた。
私と同じように無理をしていたし、持病も有ったから、ガタの来るのは早い。あそこが悪い、ここが悪いと言いながら仕事をしていた。私の引退は早かったが、彼はそれでも70歳くらいまでは勤め上げたのではないか。見上げたものである。社長が始めた商売ではあるが、それを立派に支えた。晩婚ではあったが、お二人の娘さんと、お二人の孫に恵まれて旅立った。
社長と顔を合わさない日はあっても彼とは毎日のように会っていたので、彼の働きぶりは否応でも分かる。あの頃は大雑把と言おうか、豪放磊落な時代で、どこかのんびりしたところも有ったような気がする。遊ぶ事にも仕事するのもとにかく一所懸命だった。今思えば綱渡りみたいな事を良くしたなと思う時も有った。それは私だけでなく、皆同じような事をしていたのである。
いい加減なようでいて一所懸命。そしてどこかしら情があった時代だった。今はどちらかというとピッタリ何でも規制されていて、少し窮屈さを感じる時代になった。それは時代の流れでやむを得ないのかも知れないが、その時代に生きる今の人も何かこぢんまりした印象だ。もうちょっと夢を持っても良いのではないか。もっと面白い事を追っかけても良いのではないか。
Yさんの遺影を見て「あの頃は面白かったね」とつい呼びかけた。私があちらへ往くのもそう遠くないだろうが、そちらへ行ったら社長共々酒を飲みながら、楽しく語り合いたいものですね。合掌。