すかんぴんのブログ「今日もヒマだぁ~」

暇を持て余して、お山、お絵かき、蕎麦打ち、山菜採り、キノコ採り、音楽鑑賞、オーディオ、パソコンと、あれこれ手を出し、もがいているジジイのページです。

親父殿と将棋

 藤井聡太六段の活躍で我が子を将棋道場に通わせる熱心な親が増えているようだが、私の父が子供の頃は決してそんな時代では無かった。将棋や囲碁などの棋士は遊び人かまっとうな職業でないと思う人が少なくない時代で有った。

 私の父は少年時代に骨膜炎を患い、入院した。将棋はどうもその頃覚えたようで、何でも叔父さんだったかどうか忘れたが、その人から将棋を教わったらしい。しかし教えてくれた人も父があまりに熱中するものだから、趣味でやってもいいが、将来職業にはしないように言ったらしい。

 手術もやったが結局父の脚は元通りにはならなくて、片方が何センチも短い脚になってしまった。身体障害者となった父はスポーツなどはやりにくいから、どうしても趣味は室内で出来る事になってしまう。短歌を捻ったり、将棋も益々熱心に指すようになった。将棋を好きな文学青年で有る。石川啄木は彼の好きな歌人だった。

 長じてからも将棋の趣味は続き、近隣では敵う人がいなくなった。こうなると夢や欲が出てくる。「俺はこの脚だから、肉体労働より頭で生きて行かなけりゃならん」と考えるのは自然な流れで有る。そうして父はあろう事か、将棋指しになる夢を抱いたのである。歳はまだ若く、上京して一所懸命やればそこそこの棋士になれる自負が有ったようだ。後年父はその頃を思い出すように「もし将棋指しを志したらB級1組(七段)くらいは行けただろう」と言っていた。事実父の将棋は素人将棋とはかけ離れた本格的なものだったのである。後年仕事に就いてからも県名人戦上越地区の代表を争ったことでも実力の程が分かる。

 しかし先ほども述べたとおり、当時は棋士など勝負事をやる者はまっとうな者ではないと思われていた時代だ。ましてや地方においておやだ。棋士になろうとして羽織り、袴まで作り、上京せんとした父の目論見は周囲の強い反対により、夢と消えた。

 その後父はボール箱製造職人となってからも好きな将棋を止める事は無かった。そして生涯その趣味を貫いた。私はと言えば一応将棋は覚えて、熱中した事も有ったが、親父殿程の才能は無く、プロどころかアマチュア初段の腕も無い。あっちこっちの趣味をつまみ食いしている。情けない。(笑)

 どんなに貧乏をしていた時でも将棋雑誌は毎月読んでいた。将棋と言う趣味は父の心の友だったのかも知れない。父が亡くなった時、将棋駒と愛読していた将棋雑誌を棺桶に入れてやったのは言うまでもない。