すかんぴんのブログ「今日もヒマだぁ~」

暇を持て余して、お山、お絵かき、蕎麦打ち、山菜採り、キノコ採り、音楽鑑賞、オーディオ、パソコンと、あれこれ手を出し、もがいているジジイのページです。

やせ我慢しても・・・・・(長〜いです)

 16年前になるが冥途が近くなっている父が病の床に伏せっていると、ある日突然一人の老婆が息子さんを従えてやって来た。私は面識がなかったので伺うと、昔私の父にお金を借りた事が有り、大変助かったという。今自分はいつ死んでもおかしくない歳になったが、その時借りたお金を返さなければ、死んでも死にきれないという。私は驚いた。何十年前の僅かな借りたお金を返しに来るなんて・・・・。

 当時は父自身も決して暮らし向きは楽ではなかったろうと思われるが、それでも相手は自分よりもっと楽では無いだろうとの思いから貸したものと思われるが、父の心優しい一面を垣間見る事が出来、無性に嬉しかった。それにしても当の父はもうその老婆に貸した事などすっかり忘れていたに違いない。何故ならそのことを一遍でも私に語った事はなかったからだ。父がその時病床になければ、その老婆との再会を喜んだに違いなかったのだが・・・・。

 やせ我慢をしてでも相手を助けずに居れなかった父の当時の心情を思うと瞼が熱くなる。また逆の事も有った。何十年も前の事になるが、父はお金が要る事が有って鉄工所をやっているNさんに一万円を借りた事が有る。当時父は商売上でNさんのお役に立った事が有ったが、それと借金する事とは別問題だ。今で言えば15〜20万円くらいになるので有ろうか。しかし長年返せずにいた。その話を私は聞いていたので、私が父の仕事を手伝い、幾分か暮らし向きが良くなった時、Nさんにお金を返そうよと申し出た事が有る。その時はNさんとは商売上の取引も有ったのだが。

 私の申し出に父も激しく同意して借りた金の倍額の2万円を返した。当然Nさんは驚いて受け取ろうとしなかったが、借りた金は借りた金で有る。受け取って貰わねば困る。それこそ先の老婆の話では無いが、死んでも死にきれぬと言うものだ。無論倍額にして返したとしても、当時とは金の価値が違うので、とてもそれで済むものでは無い。しかし一旦借りた金を長年返さずにいると、例えそれが僅かな額でもただお金をぶんどられるような気がして嫌なものだ。そこを堪えて返すのが男のやせ我慢と言うものだ。僅かな額でオヤジ殿の株は大いに上がった。

 冬の降雪時吹きだまりに突っ込んだり、道から脱輪した車を随分助けた。しかしほとんどと言っていい程、お礼を戴いた事は無い。まあ、別にお礼が欲しくて助ける訳では無いのだが、助けられる方はどう思っているのだろうか?お人好しが助けてくれたわいとでも思っているのだろうか?もし私がそこを通って助けてやらなければ、猛吹雪の中後何時間もそこにいなくてはならなかっただろう。その道路を通る車が有っても誰もその車を助ける者は無い。助ける道具も持っていなけりゃ、吹雪の中助ける気も無い。そうなりゃレッカー車を呼ぶしか無いが、当時は携帯やスマホなんて便利な物は無い。田んぼの中の道路から電話の有る所まで吹雪の中を歩いて行かなければならないのだ。しかもレッカー車が来てくれても臨時の仕事はとてつもない料金の請求が来る。彼らは唯々私のようなお人好しが通るのを寒い思いをして待っていたのか?

 自分の労苦を思えば幾ばくかのお礼をするのは些細な事と思うのだが・・・・・。それが出来ない。レッカー業者が助けてくれて請求されれば、やむを得ず払うくせにである。本来の業者で無ければ損した気分になるのであろうか?僅かでも誠意を見せてくれれば私も助けて良かったといい気分に浸っていられるだろうし、今後もまた助ける気になる。ところがお礼の言葉もそこそこにその場を皆そそくさと立ち去ってしまう。愚図愚図していると料金を請求されるとでも思っているのだろうか?

 私は助けられた時は必ずお礼をしてきた。その方が助けて下さらなかったら、後どれくらい時間を浪費しただろうか、どれくらいお金がかかったか?それを考えるとお礼をせずには居れない。もし持ち合わせが無かったら、名前、住所や電話番号などを聞いて後でお礼に伺うだろう、それが私を助けてくれた事に対する誠意と言うものだ。

 その時は勿体ない、払いたくないと思ってもやせ我慢をしてでも誠意を見せれば、不思議と後の気分が良い。嘗てヒッチハイクで車を拾った時も煙草銭でしか無いがお礼を差し上げた事がある。私も気分が良かったし、乗せてくれた方も良い事をしたといい気分だったに違いない。そうしてまた困っている人があれば、きっとその人は救いの手を延べるだろう。

 我々は聖人君子では無く只の凡人だ。自分の手間と時間を割いて助けてやった事に対する誠意が僅かでも欲しい。そうすりゃまた頑張れるってもんです。別にちょっとした事にまで見返りを求めるつもりは無い。ただそれなりの難儀をしてくれた人にはそれなりのお礼があってしかるべきでは?それが社会の潤滑油というものでは無いだろうか?