すかんぴんのブログ「今日もヒマだぁ~」

暇を持て余して、お山、お絵かき、蕎麦打ち、山菜採り、キノコ採り、音楽鑑賞、オーディオ、パソコンと、あれこれ手を出し、もがいているジジイのページです。

冬の夜語り

 親父殿のお袋がアラビアンナイトのシエラザード姫の如く夜な夜な昔話を聞かせてくれた人だと言うことは以前このブログで書いた。だから親父殿が昔話を語れないはずはない。私もだから幼少時代は貪るように親父殿に昔話をせがんだ。しかし親父殿は年月が余りに隔たった為と仕事が忙しかったせいかそのほとんどを忘れてしまっていた。

 

 だが冬仕事をしている際、私が本で覚えた昔話を披露するとそれに触発されたように思い出して昔話を語ってくれるのだった。すると私も幼少時代に親父殿が僅かに語ってくれた昔話を思い出した。そうして親父殿に蘇った新しい昔話を聞くにつけ、ああ、俺は随分贅沢な思いをさせて貰っていると感謝した物で有る。

 

 考えて見れば今の時代親が子供に本を読んでではなく直接語れる親がどれほどいようか。昔話は口承文学である。本をそのまま読んで聞かせては味も素っ気もない。親と子が受け答えしながら話を綴って行くのが良いのだ。だからそうやって聞かせて貰った昔話は今も決して忘れることは無い。

 

 私が家庭教師をしていた若い頃生徒さんに昔話をしてやったときはえらく受けた。テレビで当時はアニメの日本昔話を放送していたが昔話を映像化してはいけないのである。聞いた話を自分の頭の中で映像化するのが良いので有る。例えば良く昔話に出て来る山姥(やまんば)であるがその姿を聞いた本人があれこれ想像する所に昔話の良さが有るのだ。それを映像化してしまっては誰もが同じイメージになるではないか。 自分の中でイメージを膨らませることが出来るからこそ口承文学の価値があるのだ。どうもそこの所を分かっておられない方が沢山いらっしゃるのは嘆かわしいことである。

 

 まあ、それは兎も角冬の仕事の間に親父殿から忘れていた昔話を聞けたの貴重だった。口承文学という物は文字にしてないから形を変えて伝わって行くもので有る。でもそれは決して悪いことではない。その時々の演者が適当に話を脚色して伝えていてもそれも昔話の良さなのだ。斯く言う私もその様にやって来た。今昔話を語れる人がどれ位いようか。そう思うと些か自慢したくなるのだ。